2024/10/01
食べられる⇒食べれる、来られる⇒来れる、見られる⇒見れるなど、“可能”を意味する“られる”の“ら”を抜いて、“れる”だけ付けた言葉。最近オリンピックや災害のTV報道などでインタビュー機会が多いせいか、頻りにら抜き言葉が聞こえて来ます。インタビューする側のアナウンサーの言葉がら抜きのこともあります。字幕では必ず“ら”が加えられていますが。言葉は時代とともに変わりますから、何が正しいとか言えません。自分自身も気付かずら抜き言葉を使っていると思います。しかし、他人が話しているのを聞くと、どうしても違和感を抱いてしまいます。同じような違和感は方言を聞くときにも感じます。方言は、話されているその地方の文化であり、貴重な遺産です。決して間違っているわけではありません。ところが公的な場面で聞くと、違和感です。お笑い界では関西弁が結構幅を利かせておりますし、あえて関西弁で合いの手を入れるような番組も見かけますが、これは別格。NHKニュースで方言が使われることはありません。ら抜き言葉もそんなようなものかもしれません。個々の会話で使う分には違和感がないが、公的な場面で使われているのを聞くと、しっくり来ないわけです。まあ、年のせいかもしれませんが?
方言というと、こんな思い出があります。岡山市出身の私は備前語圏で育ちました。父は美作人で、その実家はもちろん美作弁ですが、家では喋りません。岡山の田舎で、備前弁を駆使する母とその妹たちに囲まれ、TVをあまり見ることもなく、標準語とは無縁の環境下で成長。社会人になって岡山を離れる機会がありました。アリゾナが最も長く、あとは土佐弁、長州弁圏内。いずれも標準的日本語に接する環境ではありませんでしたナ。そんななる日、学会で発表した後、某先生がおいでになって、「岡山出身ですか?」と聞かれました。「ハイ。でもどうして?」。「発表で話す言葉の端々に岡山弁が混ざっていて、懐かしい」。美作人、津山高校から東大に進み、後に日本神経学会の理事長にもなられた葛原茂樹先生でした。これを機に、独学路線の私にいろいろとお声がけいただき、議論の輪に加えていただいた恩師です。不調法にも衆人の前で喋ってしまった方言が、けがの功名となりました。
私の方言のように、自分では気づいて無いけれど、傍で聞いていると何かおかしいなと感じる言葉に、しばしば遭遇します。最近ではどこかの知事の答弁。方言は、場面によっては違和感を持って聞こえるかもしれませんが、他者を害することはありません。一方で、何気ない言葉が、立場が違えば棘となって心に刺さることがある訳です。医療は、診察と対話の上に成り立ちます。言葉の選択には細心の注意を払いたいです。岡山弁じゃあけど。